05 9月, 2016
  • By CWS JAPAN
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ララ物資とは?

「どのようなものが」「どうやって」送られてきたのか?

さて、「ララ物資」とは言っても、一体何が日本に送られてきていたのでしょうか?
ララ物資を受け取っていた側、当時子供だった方々に尋ねたところ、主に食料・衣類・医薬品・日用品・学用品で、それ以外にも生きた山羊や牛も送られてきたそうです。そして、ララ物資の受け取り先となっていた養護施設の倉庫は、当時の子供達にとって「宝の山」だったそうです。

ララ物資の出荷量については、様々な記録があるようで、日本政府が所蔵する記録と、送り出した側である米国側の記録とでは、数字が異なるようです。米国側の記録では、1946年~1952年までの間に日本にララ物資を輸送した船は合計458隻。これは、毎月約7隻の船が、救援物資を積んでアメリカのどこかの港から日本に向けて出港していた計算になります。

記録によれば、ララ第1便であるハワード・スタンズベリー号に積載された物資は、CWS以外に米国フレンド奉仕団、兄弟奉仕委員会の3団体から寄せられたとあります。ここで注目すべきなのは、第1便の貨物の多くは、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどの日系人グループが、CWSとフレンド奉仕団に託した献金によって購入された物資だったことです。

ララ物資はどのようにして集められたのか?

一体、これだけの量の救援物資が、これだけの長期間、全米からどのように集められていたのか。これは謎でしたが、先日入手した、1951年1月に厚生省社会局から刊行された「ララ救援物資について」によって、CWSを含めた主な団体のララ物資収集方法が分かりました。

先ずCWSの物資収集については、「当時、シカゴに本部を置いていたCROP(Christian Rural Overseas Program)によって、各農村から集められた小麦、野菜、油、穀類、シロップ、豆類、その他農産物の大部分はCWS又はルーテル救済団を通じて日本へ送られた」という記述を見つけました。(やっぱりそうだったんですね!)その割合は、ララ物資総量の55%~60%を占めていました。

フィラデルフィアに本部があった米国フレンド奉仕団の物資収集は、食料・衣類・学用品・種子・布地などを主とし、これは物資総量の約25%の割合を占めていました。フィラデルフィア、ケンブリッジ、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、サンフランシスコやロサンゼルス他の都市部の同奉仕団事務所が寄付を受け付けていました。

ニューヨークに本部があったカトリック戦時救済奉仕団は、医薬品・チョコレート・ミルク・布地・衣料品等を、各地のカトリック教会を通じての寄付で集めました。その割合は、物資総量の約10%を占めました。

その他ルーテル世界救済団とメノナイト中央委員会からは、ララ物資総量の約15%が寄付され、前者からは小麦と衣類、後者からも小麦とクリスマス小包が入っていたとのことです。また、アメリカ合衆国以外では、カナダの教会団体、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、チリ、メキシコ等各地の在留邦人からも、食料・衣類・毛布などが、何れもララを通じて日本へ送られたとのことです。

それにしても、このようにアメリカ大陸中から集められた物資を、どのようにしてとりまとめて各地の港に集めたのでしょう?またこれも謎です。相当な規模のロジスティクスと調整作業が要求されたことが想像できます。ララの本部はニューヨークにありましたが、残念ながら、今のところララ本部の資料は入手できていません。一体何人のスタッフでこれだけの大事業を回していたのでしょうか?

写真:昭和21年11月30日、サンフランシスコから横浜に到着したララ第1号船「ハワードスタンズベリー号」とララ中央委員会委員・関係者
(多々良紀夫著「救援物資は太平洋をこえて:戦後日本とララの活動」より)